広島の原水爆禁止世界大会は閉会をしました。2010年春のNPT再検討会議にむけ、新しい署名にとりくみます。
2010年まであと20ヶ月。次々と発言した海外からの代表は口々に「あと20ヶ月、どれだけの運動をひろげるか」という発言をしていました。
2010年が目標になったのは、この年のNPT再検討会議の一つ前、2000年の再検討会議で「すべての核保有国の期限を区切った核廃絶」をアメリカをふくむ各国が合意しているからです。私が国民平和大行進で県内通し行進をした次の年(→リンク)なのでよく覚えています。
2000年の合意はブッシュ政権によってホゴにされましたが、次の2010年は核廃絶の道筋をつけようという考えです。
今回の世界大会では国連の大使、そしてより多くの海外代表が出席し、運動の国内外での広がりを感じさせられます。大きな運動に実らせたいです。
閉会総会には7500人が参加し、署名のほか、原爆症認定問題のすみやかな解決を要求する特別決議をあげました。
今回の広島行きでは、青年バスを仕立てていきましたが、参加したメンバーは皆「被爆者の方の話を聞いて、原爆の恐ろしさを初めて知った」「帰って自分がどうするか考えたい」「交流できてよかった」などの感想を口にしていました。写真は「原爆の子の像」前でみんなで撮った写真です。一番後列真ん中が私です。私自身も得るものが多かったと思います。
私は5日の世界大会の分科会では、被爆者の方の話を聞く会に参加しました。被爆者訪問と言うことで、「広電五日市」という路面電車で市内から40分くらいの駅を降りて行きました。爆心から7`ほど離れたところです。「ずいぶん離れたところで聞くんだなー」と思って、8人の被爆者の方から話を聞きました。現地の八幡川西岸は、「黒い雨の大雨地域ではない」と、被爆者の認定がされない地域です。しかし実際の証言では、原爆の飛来物や黒い雨があり、原爆症と見られる重い病気で苦しみ、若くして亡くなった方も多くいるのです。政府は裁判で10連敗しても原爆症認定の基準の改善にはおざなりですが、それがこれだけの苦しみを放置することになっていたとは…。話には聞いていたことですが、実態を知っていなかったことを知りました。原爆は継承しなくてはいけないことでもありますが、今現在の課題でもあると改めて思いました。
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今の日本政府・与党は戦前の政府・要人の後継だからでしょうか。
何度語っても消えない心の痛みでしょうか、涙を浮かべながら話をされる姿に戦争の恐ろしさが目に浮かぶようでした。
私自身どうしたら世の中が平和になるのか考えたのですが、人間に欲がある以上戦争はなくならないのではないかと感じ、絶望的になりました。
日本もまた戦争をする国になるかもしれません。もしかしたら日本はする気がなくても、戦争をしかけられるかもしれません。
そんな事を考えると恐ろしくなります。
私の次の世代までこの様な恐怖心を抱かなくてもいいように、私自身しっかりと考え平和な世界であるために、努力していかないといけないと思います。
バスの中で東さんとお話をさせていただきました。覚えていらっしゃいますか?
私が言うのも可笑しいのですが、まだお若いのにしっかりと考え行動されている姿に私も見習わないといけないなっと感じました。
世の中の事、政治の事、この先の未来のこと、自分自身考え行動しようと思います。
東さんとお話できたこと嬉しく思いました。
ありがとうございました。
長々すいません。。。。
これからも「ときどき日記」見させていただきます。
がんば
政府は「核抑止力」論のもとアメリカの「核の傘」依存を正当化しています。アメリカの求めるがままに海外派兵をすすめ、平和憲法を変える動きまであります。
戦争被害者への援護が不十分なことは、そのまま平和への願いがどれだけのものか、戦争で苦しむ人にどれだけ思いを致しているのかを示しているのかもしれません。
閉会総会で広島の若者が「一人で考えるのでなく仲間で議論しよう」という趣旨のことを発言していたと思います。みなさんとともに日々学び動けたらと思います。